2009年02月06日
蝶々さんへの情熱(その1)
長崎へ行きたいと思っている。
彼の地には旅行で数回行ったことがある。いずれも観光で、あの独特なエグゾティスムの感じられる街は何度訪れても飽きることはない。
しかし、今回は単なる観光ではない。プッチーニが上演して以来、世界的な高名を博している「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」の足跡を辿ってみたいのである。いわば蝶々さんを巡る旅ということになる。
「蝶々さん」自体は実在する人物ではないが、マダム・バタフライの舞台はもちろん長崎の旧外人居留地だ。私が興味を持ったのは、島田雅彦氏の小説「彗星の住人」と「美しい魂」(いずれも無限カノン3部作に含まれる)を読み、その小説のすばらしさとともに、そこに登場する蝶々さんやピンカートン、ひいてはピンカートンJr.へとつながってゆく代々の物語に出会ったからである。小説の中の蝶々さんは(当時の)日本女性の典型にも見えたし、一方ピンカートンもただの女好きなアメリカ人とはやや異なる人物として描かれていたと記憶している。
そして、何より舞台は私の好きな長崎。そんな訳で、もう一度長崎を訪ねてみたくなった。
昨年末来、ネットを駆使し、またいくつかの文献を読み、蝶々さんの生い立ちと彼女にまつわるいくつかの見解といったものを調べてきた。小説に始まり、プッチーニによりオペラとして昇華した「蝶々夫人」について、これまで調べてきたことを簡単に紹介(自分自身へのまとめという意味合いも含んでいることをお断りしておきたい)しておこう。
少々長くなるので、酔狂にも読んでいただける方のことを配慮し、三回ほどに記事を分けて掲載する予定である。
まずは小説として誕生した「蝶々夫人」についてである。
この小説が発表されたのは、1898年である。つまり明治31年ということになる。蝶々さんの舞台となるのは、それよるり前もう少し前である。当時の日本はまさに幕末から明治維新に向かっている頃であり、対外的にはイギリス、フランス、アメリカといった西欧諸国から開国を迫られていた時期でもある。
なぜここから話を始めたかというと、「蝶々夫人」はある意味日本が置かれた近代化への過渡期にあたる、この状況がなかったら物語も成立しなかったであろうと思うからである。
当時の長崎には、先にも書いたとおり外人居留地があり、目の色も髪の色も異なる人々が長崎の街を闊歩していたのである。単一民族国家であり、しかも永らく鎖国を続けてきた日本にとって、これこそ革命的な出来事でもあったろう。吉田松陰の名を出すまでもなく、日本中が青天の霹靂におののいていたに違いない。
長崎の街には、そこに駐留するために、今様に言えば外国人の主に男たちが「単身赴任」してきたのである。そして、それだけ男が集えば、そこに風俗産業が興るのもまた、ある意味自然の理である。あまつさえ、日本には「吉原」に代表される遊郭文化があり、堂々と合法的に風俗営業できた時代でもあった。
長崎にも、今の丸山町付近に一大遊郭街が形成されていたらしい。夜な夜な目の青い屈強な男たちは、遠い異国の地で己の無聊を慰めるために、そこへ通ったことだろう。さらに、当時、外人相手にした独特のビジネススタイルも生まれていた。俗に「現地妻」と呼ばれる制度である。
今なら間違いなく人権問題が勃発するであろうこの制度は、外国人男性が日本に駐留している間だけのかりそめの「妻」をお金で雇うというものだ。それくらい、当時の外国人は金を持っていた。現地妻となった女たちを、当時の日本人は“ラシャメン(洋妾)”と呼んだらしい。もちろん、この言葉は金で外国人の手に堕ちた女性を卑下していう言葉だが、何となく日本人(男性)のやっかみも感じられるように思う(笑)
さて、長崎に集った外国人の中に、一組の宣教師の夫婦がいた。姓はコレルといい、女性の名はジェニー・コレルだった。そして、この女性こそが「蝶々夫人」を書いたジョン・ルーサー・ロングの姉でもあったのだ。
ロングは小説の中で、蝶々さんは「ヒガシヒル」に住んでいた、と書いた。ヒガシヒルとは今の東山手。当時、コレル夫妻は東山手十二番館に住んでいた。そこで、ロングは姉に聞いた話をもとに「蝶々夫人」を書いたというのが、現在では定説となっている。ただし、ヒガシヒル=東山手という符牒に関しては、今もなお確たる実証はできていないようであるが。
また、蝶々さん自身のモデルになったといわれている女性は何人かいるのだが、そのうちの最も有力と言ってよいモデルがグラバーの妻・ツルである。グラバーと言えば、修学旅行であれ何であれ、長崎市を訪れた方なら一度くらい足を運んだであろう、あの「グラバー邸」の主人である。ツルは、グラバーという外国人と結婚した後も、終生和服で通したそうである。そして、彼女が着ていた着物には、モンシロチョウの紋が染め抜かれていたというのである。そこで、グラバーの周りに集う外人女性は皆、ツルのことを「お蝶さん」と呼んでいたという記録がある。それが、「蝶々夫人」のモデルがツルであるということのゆえんである。
ただ「蝶々夫人」は小説としてかかれたものである以上、それはフィクションであることが前提となるのであり、さあればモデル議論はほどほどにしておいてもいいのではないかと思わないでもない。この議論は、ツルの末裔にあたる人が少々白熱しすぎている感さえ感じるのである。一方、グラバーの生い立ちについて図らずも知ることとなったが、こちらはなかなか波乱万丈に富んでいる。面白く、幕末~維新の歴史をステレオタイプな見方とは少し視点を変えてみることができるので、興味深い。できれば紹介したいとも思うが、これは本記事の本題から外れたトピックとなるので、もし別の機会があれば紹介してみたい。
もう一つ、小説「蝶々夫人」の元となったものがある。それはフランス人ピエル・ロティが書いた小説「お菊さん(マダム・クリザンテエム)」である。この小説は、ロティ自身が1885(明治18)年に長崎の十人町で夏の約一ヶ月を、現時妻となった日本人女性と過ごした記録を元に書いたものである。ロティの目から見た当時の日本は、相当奇異に映ったらしく、ある意味では当時の日本文化の客観的記録とも取れるが、その内容を見れば、彼が日本を未開の地、野蛮な国と思っていたことは想像に難くない。彼の日本観を移していると思われる部分を「お菊さん」から抜粋してみる。
――この国の人間たちはいかに醜く、卑しく、怪異(グロテスク)なことだろう!
――この国の人間は時間の観念とか価値の観念とかいうものを少しも持っていない。
――(ナガサキは)どこまで行っても同じような狭い街で、両側には紙と木でできた同じような低い小さな家、どこまで行っても同じような店ばかりで……
――私を見ると彼らは、鼻を床にすりつけて四つんばいになり……
しかしロティは同小説の中で、こうも書く。
――この家は、私がまだ日本に着かない頃、当直の夜などに、いろいろと夢に描いた日本での計画の中で見たところのものとまったく同じである。のどかな郊外の高台にあって、緑なす庭で取り囲まれている。(中略)蝉がよく反響する私たちの屋根の上でひねもす夜もすがら鳴いている。私たちの縁側からは、ナガサキの街が目もくらむほど一望のうちに見渡せる。町々も、和船も、高層な寺院も、或る時刻には、これらのものすべてが私たちの足元でまるで仙郷の背景のように輝きわたる。
訳者のセンスでもあろうが、ロティは美しいものも醜いものもすべてあくまでも正直に描き出したのであろう。
「お菊さん」は長崎(つまり日本)の異国情緒(エグゾティスム)と当時(明治中期)のヨーロッパでは考えられないような日本における男女関係(つまりラシャメンだ!)を伝え、ヨーロッパでの日本ブームは一大ムーブメントとなった。とりわけあの「ひまわり」で有名なヴィンセント・ヴァン・ゴッホは強い影響を受け、彼を通して西洋芸術へも影響した。ゴッホは常に「お菊さん」を傍らに置き、浮世絵への強い関心を持ったという。
どうも話が横道にそれるが、いずれにせよ「蝶々夫人」の根底にある、アメリカ海軍中尉B・F・ピンカートンの現地妻として雇われながら、彼に一生を捧げようとした愚かしくも毅然たる、悲劇のヒロイン蝶々さんの原型は「お菊さん」に見ることができるのである。
それにしても、見方によっては(当時の)日本を見下したロティの住居跡の碑が今も十人町に建っている。観光都市としての長崎の商魂たくましき姿と見ることもできようが、今もなお西欧への憧憬、そしていち早く近代化を果たした彼らへの日本人のルサンチマンという見方はひねくれ過ぎであろうか?
刻々と変わる情勢と、新しい文化が怒涛のごとく流入してきたこの時代を生きた人々は、さぞやエキサイティングな毎日を過ごしたであろう。そして、それはとてつもなく大変で苦しいことと知りつつも、退屈な毎日を過ごす現代の私には、少しだけ羨ましくも思えるのである。
後に「蝶々夫人」は、アメリカ人デヴィッド・べラスコにより劇「蝶々夫人、日本の悲劇」として上演され、絶賛を浴び、蝶々さんはジャコモ・プッチーニと運命的な出会いを果たすのだが、ここから先はまた次の機会に……。
(了)
この小説が発表されたのは、1898年である。つまり明治31年ということになる。蝶々さんの舞台となるのは、それよるり前もう少し前である。当時の日本はまさに幕末から明治維新に向かっている頃であり、対外的にはイギリス、フランス、アメリカといった西欧諸国から開国を迫られていた時期でもある。
なぜここから話を始めたかというと、「蝶々夫人」はある意味日本が置かれた近代化への過渡期にあたる、この状況がなかったら物語も成立しなかったであろうと思うからである。
当時の長崎には、先にも書いたとおり外人居留地があり、目の色も髪の色も異なる人々が長崎の街を闊歩していたのである。単一民族国家であり、しかも永らく鎖国を続けてきた日本にとって、これこそ革命的な出来事でもあったろう。吉田松陰の名を出すまでもなく、日本中が青天の霹靂におののいていたに違いない。
長崎の街には、そこに駐留するために、今様に言えば外国人の主に男たちが「単身赴任」してきたのである。そして、それだけ男が集えば、そこに風俗産業が興るのもまた、ある意味自然の理である。あまつさえ、日本には「吉原」に代表される遊郭文化があり、堂々と合法的に風俗営業できた時代でもあった。
長崎にも、今の丸山町付近に一大遊郭街が形成されていたらしい。夜な夜な目の青い屈強な男たちは、遠い異国の地で己の無聊を慰めるために、そこへ通ったことだろう。さらに、当時、外人相手にした独特のビジネススタイルも生まれていた。俗に「現地妻」と呼ばれる制度である。
今なら間違いなく人権問題が勃発するであろうこの制度は、外国人男性が日本に駐留している間だけのかりそめの「妻」をお金で雇うというものだ。それくらい、当時の外国人は金を持っていた。現地妻となった女たちを、当時の日本人は“ラシャメン(洋妾)”と呼んだらしい。もちろん、この言葉は金で外国人の手に堕ちた女性を卑下していう言葉だが、何となく日本人(男性)のやっかみも感じられるように思う(笑)
さて、長崎に集った外国人の中に、一組の宣教師の夫婦がいた。姓はコレルといい、女性の名はジェニー・コレルだった。そして、この女性こそが「蝶々夫人」を書いたジョン・ルーサー・ロングの姉でもあったのだ。
ロングは小説の中で、蝶々さんは「ヒガシヒル」に住んでいた、と書いた。ヒガシヒルとは今の東山手。当時、コレル夫妻は東山手十二番館に住んでいた。そこで、ロングは姉に聞いた話をもとに「蝶々夫人」を書いたというのが、現在では定説となっている。ただし、ヒガシヒル=東山手という符牒に関しては、今もなお確たる実証はできていないようであるが。
また、蝶々さん自身のモデルになったといわれている女性は何人かいるのだが、そのうちの最も有力と言ってよいモデルがグラバーの妻・ツルである。グラバーと言えば、修学旅行であれ何であれ、長崎市を訪れた方なら一度くらい足を運んだであろう、あの「グラバー邸」の主人である。ツルは、グラバーという外国人と結婚した後も、終生和服で通したそうである。そして、彼女が着ていた着物には、モンシロチョウの紋が染め抜かれていたというのである。そこで、グラバーの周りに集う外人女性は皆、ツルのことを「お蝶さん」と呼んでいたという記録がある。それが、「蝶々夫人」のモデルがツルであるということのゆえんである。
ただ「蝶々夫人」は小説としてかかれたものである以上、それはフィクションであることが前提となるのであり、さあればモデル議論はほどほどにしておいてもいいのではないかと思わないでもない。この議論は、ツルの末裔にあたる人が少々白熱しすぎている感さえ感じるのである。一方、グラバーの生い立ちについて図らずも知ることとなったが、こちらはなかなか波乱万丈に富んでいる。面白く、幕末~維新の歴史をステレオタイプな見方とは少し視点を変えてみることができるので、興味深い。できれば紹介したいとも思うが、これは本記事の本題から外れたトピックとなるので、もし別の機会があれば紹介してみたい。
もう一つ、小説「蝶々夫人」の元となったものがある。それはフランス人ピエル・ロティが書いた小説「お菊さん(マダム・クリザンテエム)」である。この小説は、ロティ自身が1885(明治18)年に長崎の十人町で夏の約一ヶ月を、現時妻となった日本人女性と過ごした記録を元に書いたものである。ロティの目から見た当時の日本は、相当奇異に映ったらしく、ある意味では当時の日本文化の客観的記録とも取れるが、その内容を見れば、彼が日本を未開の地、野蛮な国と思っていたことは想像に難くない。彼の日本観を移していると思われる部分を「お菊さん」から抜粋してみる。
――この国の人間たちはいかに醜く、卑しく、怪異(グロテスク)なことだろう!
――この国の人間は時間の観念とか価値の観念とかいうものを少しも持っていない。
――(ナガサキは)どこまで行っても同じような狭い街で、両側には紙と木でできた同じような低い小さな家、どこまで行っても同じような店ばかりで……
――私を見ると彼らは、鼻を床にすりつけて四つんばいになり……
しかしロティは同小説の中で、こうも書く。
――この家は、私がまだ日本に着かない頃、当直の夜などに、いろいろと夢に描いた日本での計画の中で見たところのものとまったく同じである。のどかな郊外の高台にあって、緑なす庭で取り囲まれている。(中略)蝉がよく反響する私たちの屋根の上でひねもす夜もすがら鳴いている。私たちの縁側からは、ナガサキの街が目もくらむほど一望のうちに見渡せる。町々も、和船も、高層な寺院も、或る時刻には、これらのものすべてが私たちの足元でまるで仙郷の背景のように輝きわたる。
訳者のセンスでもあろうが、ロティは美しいものも醜いものもすべてあくまでも正直に描き出したのであろう。
「お菊さん」は長崎(つまり日本)の異国情緒(エグゾティスム)と当時(明治中期)のヨーロッパでは考えられないような日本における男女関係(つまりラシャメンだ!)を伝え、ヨーロッパでの日本ブームは一大ムーブメントとなった。とりわけあの「ひまわり」で有名なヴィンセント・ヴァン・ゴッホは強い影響を受け、彼を通して西洋芸術へも影響した。ゴッホは常に「お菊さん」を傍らに置き、浮世絵への強い関心を持ったという。
どうも話が横道にそれるが、いずれにせよ「蝶々夫人」の根底にある、アメリカ海軍中尉B・F・ピンカートンの現地妻として雇われながら、彼に一生を捧げようとした愚かしくも毅然たる、悲劇のヒロイン蝶々さんの原型は「お菊さん」に見ることができるのである。
それにしても、見方によっては(当時の)日本を見下したロティの住居跡の碑が今も十人町に建っている。観光都市としての長崎の商魂たくましき姿と見ることもできようが、今もなお西欧への憧憬、そしていち早く近代化を果たした彼らへの日本人のルサンチマンという見方はひねくれ過ぎであろうか?
刻々と変わる情勢と、新しい文化が怒涛のごとく流入してきたこの時代を生きた人々は、さぞやエキサイティングな毎日を過ごしたであろう。そして、それはとてつもなく大変で苦しいことと知りつつも、退屈な毎日を過ごす現代の私には、少しだけ羨ましくも思えるのである。
後に「蝶々夫人」は、アメリカ人デヴィッド・べラスコにより劇「蝶々夫人、日本の悲劇」として上演され、絶賛を浴び、蝶々さんはジャコモ・プッチーニと運命的な出会いを果たすのだが、ここから先はまた次の機会に……。
(了)
Posted by You at 02:18│Comments(0)
│文学
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