さて、いろいろと脇道にそれながら見てきたオペラ『蝶々夫人(Madama Butterfly)』のあらすじを最終回としてご紹介したい。
ところで、このオペラを演じた有名な二人の女優が、今もグラバー邸で紹介されている。三浦環(たまき)と喜波貞子(きわていこ)である。三浦はあの有名な滝廉太郎(たしか音楽の時間に出てきたような!? 当時、音楽と言えば睡眠時間orお食事タイムと思っていた私でも覚えているwww)に師事したというから、これはもうエリートと呼んでいいだろう。実際、日本では蝶々夫人といえば三浦環というくらい、有名なオペラ歌手である。プッチーニ自身からも、「世界でただ一人の最も理想的な蝶々夫人」という賛辞も受けたようである。
一方、喜波貞子は主に活躍をヨーロッパの地に求めたようで、わが国では三浦の影で今ひとつマイノリティな扱いをされているようである。しかしながら、ヨーロッパではかなり名を知られていたようで、見た目(要望)も手元の写真で見る限り、三浦よりもエキゾチックな感じがする。とはいえ、当然欧州の人々から見れば“日本人”な訳で、彼女も欧州にジャポニズムの影響を与えるのに一役買ったようである。
プッチーニ自身もオペラの中に積極的に日本の楽曲の収集、転用を行っていて、これが「蝶々夫人」が日本人に愛されてきた要因の一つと見る向きもある。西洋でこれだけ日本情緒をたたえた歌劇が生まれ、愛され続けたことは稀有と言ってよい。その意味で、日本人的な立場において、プッチーニのなした仕事のもつ功績は大きい。
また話が横道にそれてしまったが、あらすじに入る前に、最後にもう一つだけ能書きを書く。気づいた方もおられるかもしれないが、小説「蝶々夫人」の原題は、Madame Butterflyという。一方、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」は、Madama Butterflyなのである。おそらくロングはアメリカ人(つまり英語圏の人)であり、プッチーニはイタリア人であったことからくる違いであろうと推測する。それにしても、漢字は併用するにせよ、普段独特の言語体系をなす日本語しか使っていない私からすると、同じラテン語を源流とする各種のヨーロッパ系言語は紛らわしいことこの上ない。まあ、英語すらろくに使いこなせない者の僻みだと思ってくれればよい(笑)
では、いよいよ……
【第一幕】
蝶々さんは、もともと長崎オマラ地区(今の大村市と言われているが、明確な根拠はない)で、士族の娘として生まれました。蝶々さんの家は、元来裕福な家柄でしたが、士族の父が時の天皇の勅令により切腹を命ぜられたのを機に没落していくのでした。
※明治に入ったばかりの日本が偲ばれる。この当時はまだ、民主主義などどこ吹く風の独裁国家だったのだ。「日本国」ではない、「大日本帝国」だったのである。
こうして蝶々さんも芸者へと身を落とすことになりました。
当時、蝶々さんは本当に可憐な蝶のような娘でした。たまたま蝶々さんが出ていたお座敷で遊んでいたアメリカ海軍中尉のB・F・ピンカートンは、一目で蝶のような娘さんに目を奪われたのでした。
そして、ピンカートンは結婚斡旋屋のゴローを通じて、蝶々さんを紹介してもらうこととなりました。このとき、ピンカートンとゴローの間で買わされた約定金額は、100円(現在の100万円に相当する金額)でした。
※ここでいう結婚とは「現地妻」の斡旋である。要するに人買いであり、この意識の違いこそが蝶々夫人の悲劇の根底となる。
ミラノ・スカラ座での初演の際、蝶々さんの台詞にはこうあります。
「私を百円で買って頂き、感謝致します」
おそらく蝶々さんは、彼女自身の“一生”をわずか100円で請けてくれたピンカートンへの感謝の気持ちで一杯だったのでしょう。そして、その心情を、ピンカートンの側近でもあった駐長崎領事の心優しいシャープレスは察していました。彼はピンカートンに進言するのです。
――ゴローが紹介した蝶々さんという娘は、あなた(ピンカートン)との結婚を永久の縁と信じているよ。だから、あなたの行為(現地妻として雇うこと)は軽率だ。
しかし、ピンカートンはまったく聞く耳を持ちません。
結局、二人は婚礼の儀を挙げることとなりました。蝶々さんは心から結婚を喜び、何とキリスト教(耶蘇教)に改宗までしてしまいました。
※当時の天皇を頂点とする神道国家にあって、なんと大胆な決断だったことか!
もちろんピンカートンにとっては、あくまでも現地妻にすぎませんでした。そして、改宗に激怒した叔父の僧侶ボンゾが結婚式に怒鳴り込んできたのです。すっかり白けた身内の者たちは、あきれて帰ってしまいました。
悲しんだ蝶々さんをピンカートンは慰め、二人は初夜を迎えました。
【第二幕】〈第一場〉
蝶々さんとピンカートンのかりそめの結婚生活はわずかの期間でした。ピンカートンがアメリカに帰って、もう三年が経ちました。ピンカートンはアメリカに経つ前に、蝶々さんにこんな言葉を残しました。
「コマドリが巣を作る頃には帰ってくるよ」
それから何度、コマドリは巣作りをしたでしょう。ピンカートンは自らの約束を反故にしたのではないかと、蝶々さんの女中スズキは疑いを持ち始めました。
でも、彼の帰りを信じる蝶々さんは、そんなスズキをとがめるのでした。
その頃、シャープレスは日本に向かっていました。蝶々さんに会うためでした。会って、ピンカートンが本国でアメリカ人女性のケイト(Kate)と正式に結婚したことを伝えるためです。彼はそのことをしたためた手紙を携えていたのです。
蝶々さんはシャープレスとの再会を大いに喜びました。もちろん、ピンカートンも帰ってくることを今も信じていることは明らかです。
シャープレスは手にした手紙を読むことができませんでした。そんな彼に、蝶々さんは、ピンカートンとの間にできた三歳になる息子を披露したのです。ますます、シャープレスは手紙の内容を切り出すことができなくなりました。
そこへゴローが裕福な紳士ヤドリギ公を、新たな結婚相手として連れて来ました。ヤドリギ公は早速に蝶々さんに結婚を申し込みました。だが、蝶々さんはまったく耳を貸そうとしません。
ゴローは蝶々さんに、あなたは離縁されたのだ、と告げます。それでも蝶々さんは激しくヤドリギ公を拒絶し、ゴローにこう告げるのです。
「それは日本の習慣に過ぎない。今の私はアメリカ人である」
横にいたシャープレスは、おずおずと蝶々さんに尋ねます。もし……ピンカートンが戻らなかったらどうするのか、と? 蝶々さんは我が子を見せ、応えました。
「芸者に戻るか、さもなければ自刃するしかありません」
さらに「我が夫がこの子のことを忘れようか」と言い放ち、「子供のために芸者に戻って恥を晒すよりは死を選ぶわ」と泣き叫ぶのでした。とうとうシャープレスは、いたたまれなくなり、そっと席を立ってしまいました。
スズキは悪評を広げようとするゴローを捕まえました。蝶々さんにとって悪い知らせは、次々に届きました。
そんな中、夫の所属艦だった「アブラハム・リンカーン号」が長崎に入港するのが確認できました。蝶々さんはこれを喜び、スズキや息子とともに夫の帰りを待ちました。そして自分も、息子も、スズキにも盛装させるのです。このときの気持ちを、蝶々さんは、今も有名なアリア(詠唱)「ある晴れた日に」に乗せて歌います。
ある晴れた日に
水平線の向こうに、一筋の煙が見え、あの人の船が入ってくるでしょう。
それは、真っ白い船。そして礼砲が響き渡る。
見えるかしら?
いよいよあの人が帰っていらしたの。
だけど私は、あの人をお迎えにはいかないわ。
向こうの丘で、あの人を待つの。
どんなに待っても、いつまで待ってもつらくないのよ。
賑やかな街の人々の間をすり抜けて、あの人はここへ帰ってきて下さるわ。
その人は誰かしら?
ここへ着いたとき、何と言って下さるかしら。
遠くから、「蝶々さん、蝶々さん」って、呼んで下さるわ。
でも私は隠れるの。ちょっとだけ、あの人に意地悪をするのよ。
だって、久しぶりにお会いするのだもの。
喜びのあまり、死んでしまったら困るでしょう。
あの人は、心配になって一生懸命私を呼ぶわ。
「バーベナ(美女桜)の香りのような、私のかわいい奥さん」と。
あの人は、初めて会ったとき、私をそう呼んでくれたのよ。
あの人は、必ず帰ってくるわ。私は、そう信じているの。
しかし、結局、蝶々さんは一晩中寝ずに待っていましたが、ピンカートンは帰ってきませんでした。
〈第二場〉
とうとう夜が明けました。目覚めたスズキが、蝶々さんのところに息子を連れてきました。すっかり憔悴していた蝶々さんに、スズキは休むように説き伏せました。
蝶々さんが息子と寝室で休んでいると、ピンカートンは妻ケイトとシャープレスを伴って、蝶々さんの家に訪れました。
寝ている蝶々さんの代わりに、スズキは恐るべき真実を聞かされてしまいました。そして、ピンカートンに蝶々さんへの想いを訊くのです。
ピンカートンは、蝶々さんの想いを知り、自身を深く恥じました。罪悪感にさいなまれたピンカートンは、余りに卑劣な真実を自分の口からは告げられないと思い、自分のするべき義務を放り出して去ってしまいました。
スズキは怒っていました。ところが、シャープレスから、蝶々さんが子供を渡してくれれば、ピンカートンの本妻であるケイトがその子を養育する、という話に説き伏せられてしまいました。
スズキは蝶々さんを呼んできました。蝶々さんはピンカートンに会えるのだと思い、目を輝かせながら現れました。
しかし、目の前にいたのは、ピンカートンではなく彼の本妻のケイトでした。蝶々さんは全てを悟りました。そして、感傷的な穏やかさをたたえつつ、真実を受け止め、礼儀正しくケイトを祝福したのです。「これで平和が見出されるでしょう」と。
そして、ケイトとシャープレスに深々とお辞儀をすると、息子を渡すことを約束しました。ある、一つの条件とともに。
「ピンカートンが迎えに来るのなら、子供をお渡ししましょう」
蝶々さんは、スズキに家中の障子を閉めさせました。部屋に一人きりになった蝶々さんは、スズキに「子供を外で遊ばせるように」と命じ、下がらせました。
そして、仏壇の前に座ると、父の遺品の短刀を取り出しました。
「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」
そう詠むと、自刃しようとします。そのとき、息子が走り寄って来ました。蝶々さんは息子を抱きしめます。そして「さよなら坊や」を歌うのです。
ああ、私の坊や、かわいい坊や
小さな神様、私の愛する子
ユリの花、バラの花のような、愛らしい坊や
お前の汚れない目に、死んでゆく私の姿がうつらないように
なぜならお前は、これから海を越えて、遠い国へ行くのだから
大きくなって、母親から捨てられたなんて思わないように
お前は神様から授かった、大事な子
さあ、母の顔をよく見るのよ
決して忘れないように
さあ、よく見てちょうだい
さよなら、愛しい坊や、さようなら……
お行き……いい子だから、あちらへ行って遊んでおいで……
蝶々さんは、息子に目隠しをして、日米の国旗を両手に持たせます。そして、喉に刃を突き立てました。今わの際でも、蝶々さんは息子に手を伸ばそうとします。
そこへ、異聞を聞きつけたピンカートンとシャープレスが戻ってきます。
しかし、時すでに遅く、蝶々さんは息絶えたあとでした
(幕)
さて、以上が蝶々さんのあらすじである。もし内容に不正確な点や誤りがあるとすれば、それは全て私の責である。ご容赦願いたい。
ちなみにロングの小説では、最後蝶々さんは死なずに、いずこへか去っていくことになっている。どちらの結末がいいのかは、私には決めることができない。いずれにせよ、この悲劇は鎖国政策から、欧州の各国列強からの圧力によって開国を迫られ、急速に近代化を遂げていく日本のまさに過渡の真っ只中で生まれた物語に違いない。
それは一見、幕府から朝廷への、つまり将軍から天皇への政権移譲といった形に見えるかもしれないが、同時に次々と流入する西洋文化、物資、そして人が、長崎を初めとする開港地に居留地を設け、そこで営まれた外国人と日本人(主に女性)との邂逅は壮絶ですらある。当時の日本人は、それに抗う術さえ持たなかったやもしれない。
今、我々はぶくぶくの民主主義国家を謳歌しているが(そして、それはとても幸福なことであるが)、それはわずか100年余り前の先人たちのとてつもなく革命的な出来事を乗り越えたところに築かれたものである。長い、長い我が日本の歴史の、ほんの少しばかり前の出来事にすぎない。
ロングは小説『蝶々夫人』の中でこう書いている。
「蝶々さんは日本人により、いかに死すべきかを教えられ、また、ピンカートンにより、いかに生きて楽しむべきかを教えられたが、それが結局、彼女に死を選ばせることとなった」(了)