蝶々さんへの情熱(その2)
プッチーニはべラスコの劇「蝶々夫人、日本の悲劇」を見て感動し、すぐにオペラ化を決意したという。このときイタリア人のプッチーニは、全く英語が理解できなかったというから驚きである。
早速プッチーニは、ベラスコとそもそもの原作者であるジョン・ルーサー・ロングにオペラ化の許可を取り付けた。全く見当違いな感想だが、そしてよくよく考えればごく当たり前のことでもあるが、この時代から(少なくとも西欧圏では)「著作権」というものが意識されていたのだなと感じた。本来(営利目的ということとは別の次元で)尊重されるべき「著作権」というものが、ネットの普及とともに急速に脆弱化している現状を見ると、このようなごく当然のことにも関心を持ってしまう。
プッチーニはオペラ「蝶々夫人(Madama Butterfly)」を最初ミラノのスカラ座で上演されたが、このときは評判は散々だったという。しかし、手直しをしながら上演を重ねるうちに、いつしかプッチーニの代表作に数えられるまでになった。ヴェルディの『椿姫』、ヒゼーの『カルメン』と並んで『蝶々夫人』を世界三大オペラに数える説もあるくらいだ。
オペラ『蝶々夫人』といえば、第2幕で歌われるアリア「ある晴れた日に」がかなり有名だが(フィギュアスケートなどでも使われるらしい。今後、注目したいと思っている。)、このオペラは蝶々さん役の歌手にとっては終始出ずっぱりな上、歌のパートも非常に多いため、「ソプラノ殺し」の異名もあるらしい。生半可なオペラ歌手では太刀打ちできないくらい、難しい役どころなのだろう。残念ながら、音楽のことはまったくド素人な私には、どれくらい大変なことなのか全く実感できないのであるが……。
ところでオペラ『蝶々夫人(Madama Butterfly)』のあらすじは次回に譲ることとして、今回は直接蝶々夫人とはかかわりがないものの、同じ時代を生きた一人のフランス人のことを書いておきたい。いわば、蝶々夫人にまつわるサイドストーリーだと思って、お読みいただければ幸いである。
ヴィクトール・ピナテールという男がいた。彼の出身はフランスで、故国は当時、革命のさなかであった。その戦火を逃れて、ヴィクトール・ピナテールは長崎で貿易商を営んでいた父、ユージーン・ピナテールを頼って日本に来た。十六歳のときである。その後、彼は父のもとで、ピナテール商会の仕事に精を出し、何不自由ない暮らしを送っていた。
しかし、23歳のとき父を亡くす。それからもピナテール商会の事業は順調で、彼は経済的には恵まれたが、やはり異国の暮らしに寂寞の思いを感じたようである。これは大陸から、極東の島国にやってきた外人に共通のメランコリーなのではないかと感じる。
ピナテールはいつしか丸山町の花街に足を踏み入れる。これもまた金とメランコリーを抱えた男の性であろう。そして彼は、そこで遊女「正木」に出会う。この出会いこそ、ピナテールのその後を決定づけた。正木の写真なり肖像画なりを発見することができなかったので、どのような人物かは定かではない。だが、ピナテールにとってはまさしく衝撃的な出会いだったようだ。
他の外国人は、身近な日本女性を“現時妻”と割り切って雇ったが(蝶々さんでさえ……)、ピナテールは元来真面目でもあったのだろうが、それができなかった。正木に心底惚れ抜いて、身も心も捧げるほどに愛したようである。
一方、正木は永年の遊郭づとめから酒乱の気があった。飲みつぶれ、街を狂女のようにふらつくことさえあったという。まぁ、今では週末の街を歩いていれば、同じようなオヤジをいっぱい見かけるがwww
それでもピナテールの愛には変わりはない。一人の女に入れ込んだ男というものは、非常に弱いものである。ピナテールがそのような愛におぼれたのは、父を失ったことによるメランコリーか、あるいはそれほどに正木なる女性が魅力的だったのか(文献ではそこがはっきりしないのだが)わからないが、いずれにせよ本当にピナテールは、それこそ骨の髄まで正木を愛しぬいた。
そういうところに好事魔は現れる。ピナテールの愛を一身に受けた正木も、二人が出会い、一緒に暮らし始めて3年ほど経ったとき、風邪をこじらせて亡くなってしまうのである。あわれ、ピナテールは壊れた。
以来40年、ピナテールはすべての気力を失い、出島五番館に閉じこもった。今ならさしずめニートだ。記録によれば、髪もひげも爪も伸びるに任せて、周囲からは「西洋乞食」の称号を得たという。
だが、ブロークン・ハートの男にはそんな称号すら耳に届かなかった。彼はただ、正木の匂いのしみついた箱枕だけを抱きしめて、毎日を過ごしていたようである。ここまで愛された正木は幸福というべきか。しかし、ピナクールを思えば、あまりに生き方が不器用すぎるようにも思う。仮に亡くなったのがピナテールだったなら、おそらくこんな悲劇も生まれまい。だが、ピナクールは“男”だった。ゆえに壊れた。愛が深ければ、それだけ男はまともに反動を食らう。これは別に男と女を差別しようというのではなく、もっと性の本質的な部分における「差異」だ。
これが、革命を逃れて、父の元である長崎にやってきたヴィクトール少年の顛末である。ロティやグラバーのような碑こそ建っていないものの、国際墓地にひっそりとピナクールも眠っている。外人男性とラシャメンにまつわる、肉体的な契約による話ばかりの中、ヴィクトールの物語は決して有名ではないけれども、この時代の長崎を紐解くときに一服の清涼剤のごときカタルシスを与えてくれるような思いがするのである。
後年、かの高名な歌人斉藤茂吉(『赤光』や『あらたま』などが有名)は、ピナテールの話を聞き、当時長崎で教授をしていた彼は長崎高商教授の武藤長蔵を伴いピナクールを訪ねたという。ちなみに茂吉は、その後、4年の留学を経て東京に戻り、青山脳病院の院長になっている。つまり精神科医でもあったのだ。とすれば、茂吉は失意のどん底でまさしく壊れ行くピナテールの心を覗いてみたかったのかもしれない。
ちなみに茂吉は13歳年下の妻を娶っており、これがまた奔放な女性だったようである。後に「ダンスホール事件」なる不倫事件が明るみになることとなり、その悪妻ぶりと同時に、母親としてもひどかったことは茂吉の息子である北杜夫氏のエッセーなどからうかがえる。つまり、茂吉もピナテールと同様にメランコリーを抱えながら生きていたのだ。
茂吉は失意のピナテールを見て、数首の句を詠んでいる。
寝所(ふしど)には括(くく)り枕のかたはらに朱の筥枕おきつつあはれ
冬の雨ふるけふをしもPignatelが家をたずねて身にし染むもの
うらがなしき夕べなれどもピナテールが寝所おもひて心なごまむ
山上次郎著「斉藤茂吉の生涯」では、茂吉のピナテールへの想いがこう書かれている。
――40年前に死んだ恋人――それも一遊女にすぎない女を今尚恋い続ける異国の人間と、連れ添いながら相交わることのない自分と何れが悲しいか。茂吉は一人ピナテールを思っては心を慰めたのである。
いつの時代も、男はメランコリーにさいなまれる。実に弱い生き物である。
(了)
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